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法格言集・法学者列伝

ルードルフ・フォン・イェーリング  ルードルフ・フォン・イェーリング(Rudolf von Jhering)は、『権利のための闘争』の著者として、日本でもっともよく知られた近代ドイツの法学者のひとりである。

  イェーリングは、1818年8月22日、ドイツ北部、東フリースランドの小都市アウリッヒで生まれた。プロイセンをはじめ分立する領邦諸国家が力を増す中で800年以上続いた神聖ローマ帝国が消滅し(1806年)、経済的には重工業を牽引力とした資本主義的工業化が国家の力で促進されてゆこうとする時代である。同じ1818年の5月5日には、南西部のトリーアで『資本論』の著者カール・マルクスが生まれている。

  父方は、数世紀にわたって法律家を輩出した家系だった。そこで、ギムナジウム(大学進学者のための中等教育機関)を修了すると家系の伝統に従ってハイデルベルク大学法学部に学生登録したが、将来は小説家になる夢をもっていたらしい。しかし、ミュンヘン大学、ゲッティンゲン大学を転々とした末、40年にベルリン大学に赴き、そこで学位論文、次いで教授資格論文を提出して、法学者としての道に踏み出すことになる。私講師(教授資格はもつが教授職に就くことなく教育活動を行なう者)としてローマ法の講義を行なう傍ら、処女作『ローマ法諸論稿』を公刊し、45年春、弱冠26歳でバーゼル大学のローマ法教授に就任した。しかし、早くも翌46年には招聘を受けてロストック大学へ、次いで49年にはキール大学へ、さらに52年にはギーセン大学に移った。今日のヘッセン州にあるこの小さな町に16年間滞在することになる。

  ギーセン大学においてイェーリングは、「インスティトゥティオーネン」(法学提要)や「パンデクテン」(学説彙纂)の講義などを行なった。それらは、6世紀に東ローマ帝国のユスティニアヌス帝のもとで編纂された「市民法大全」の一部をなすもので、中世イタリアに勃興したローマ法学をつうじてドイツをはじめとするヨーロッパ大陸に継受されていた。諸邦に分かれた当時のドイツには統一的な民法典は存在しておらず、ローマ法の講義は今日の民法の講義に相当するものだったのである(イェーリングの生まれる少し前には、法典化の是非をめぐって「法典論争」が行なわれている。穂積陳重は、民法典施行延期派の論客として自ら加わった明治日本の「民法典論争」を、この法典論争と重ね合わせている)。
  イェーリングは、ギーセン時代の52年から65年にかけて、3巻にわたる大著『ローマ法の精神』を著している。当時のドイツにおける有力な法学潮流は、ローマ法学者サヴィニー(1779~1861年)らによって代表される歴史法学だった。サヴィニーは法典論争において、法は自然に発展すべきものであって、性急に立法化を行なうことは間違いである、と主張していた。これに対して、『ローマ法の精神』におけるイェーリングは、法を民族の歴史と結びつける歴史法学派を批判し、ローマ法の中の純粋にローマ的なものと普遍的なものとを区別し、後者を近代社会の共通の法原理として摘出することを意図していた。彼がローマ法の本質として高く評価していたのは、法の原動力としての個人の活動力である。このことが、のちに『権利のための闘争』において力強く主張されることになる。

  1868年、イェーリングはウィーン大学に移る。歴史法学からの脱却を図るとともに、「生活が概念のために存在するのではなく、概念が生活のために存在する」と述べていた彼は、自由主義的な気風に満ちたこの大都市に迎えられたのである。彼の講義には、200名から400名というギーセン時代の10倍以上の聴講生がつめかけたという。しかし、70年夏に勃発したフランスとの戦争(普仏戦争)でプロイセンを中心とするドイツ諸邦が勝利し、次いで71年に統一ドイツ(ドイツ帝国)が成立するという歴史的な転機を迎える中で、彼はオーストリアを離れ、ドイツに戻ることになる。72年、招聘を受けたゲッティンゲン大学に籍を移したのである。ここでイェーリングは、もうひとつの大著『法における目的』(第1巻1877年、第2巻1883年)を著している。
  『法における目的』においてイェーリングは、「目的がすべての法の創造者である」、「目的すなわち実際的な動機にその源を負わない法規は存在しない」という立場から、法とは「国家の強制力によって達成された社会の生活諸条件の確保の形式」であるという定義を与えている。資本主義の諸矛盾が労働問題をはじめとする社会問題としてすでに顕在化している当時の現実を背景に、イェーリングのここでの認識は、個人の自由な活動の意義を説くにはもはやとどまることなく、人間が社会的な相互依存の網の中にある存在であることに目を向けるものとなっている。報償と強制によって個人のエゴイズムを馴致し、社会に統合してゆくうえでの法の役割が強調されているのである。イェーリングによる「社会の生活諸条件」への着目は、のちにエールリッヒらによって発展させられる法社会学の先駆けとして評価されている。

  イェーリングはその後も著作活動を続け、多方面において大きな影響を与えた法学者としての名声に包まれながら、1892年9月17日、ゲッティンゲンにおいて他界した。

  さて、『権利のための闘争』は、1872年3月11日、ウィーンを離れるにあたって当地の法律家協会において行なった講演をもとに、これに加筆して同年夏に公刊したものである。この日、大西洋のむこうのワシントンでは、前年の終わりに横浜を発った岩倉使節団がアメリカ国務省において条約改正にかんする交渉に着手していた。使節団は、ちょうど1年後には、ドイツを統一に導いた指導者としてイェーリングに深い感銘を与えたビスマルクにベルリンで接する機会を得、強い印象を受けている。国内では、箕作麟祥が数年間にわたる苦闘の末ナポレオン5法典の翻訳を終えたのが1872年である。当時の日本が主として目を向けていたのはフランス法であり、ドイツ法への関心が高まるのはもう少しあとになる。『権利のための闘争』は、1886年に西周によって日本語に翻訳されている。イェーリング自身の整理によれば、それは20番目の外国語訳だった。

  『権利のための闘争』は、「権利=法の目標は平和であり、そのための手段は闘争である」(村上淳一訳)という有名な一節で始まっている。「権利=法」というのは、ドイツ語のRecht(レヒト)の訳である。Rechtは、フランス語など一連のヨーロッパ語と同様に、「法」という意味と「権利」という意味とを含んでいるため、「権利=法」という訳語が選ばれているのである。つまり、日本の読者は冒頭から、「法」と「権利」とはどのような関係にあるのかを考えさせられることになる。
  というわけで、「権利=法のための闘争」は、「法のための闘争」(既得権の抵抗を打ち破って新しい法を作り出してゆく闘争)と「権利のための闘争」(自己の権利を主張する個々の権利者の闘争)とからなっている。本書においてイェーリングが多くのページを割いて力説しているのは、主として「権利のための闘争」の性質と意義にほかならない。権利者が訴訟をつうじて自己の権利を主張するのは、単なる利害の問題ではなく人格の問題である、いいかえれば、自己の人格を害する仕方で権利を無視された者は、利害得失を超えてありとあらゆる手段で戦うのが自分自身に対する義務なのである。さらに、法は実際に実行されることをもって本質とするのであり、実行されることのない法規範は法規範の名に値しないのであるから、権利者が自己の権利を主張することは、法を法たらしめる行為であるという意味で国家共同体に対する義務でもある―これがイェーリングの主張のエッセンスである(国家共同体に対する義務の履行を疎かにして権利ばかり主張するのはおかしい、という形で権利と義務とを対置する言説とはまったく異なることに注意したい)。著者自身、この書物の目的は「権利=法に窮極の力を与える心的態度の涵養、つまり権利感覚を大胆に発揮して屈しない態度の涵養をめざす」ことにある、と語っている。

  『権利のための闘争』は、文庫本にして本文100頁ちょっとの分量である。内容も決して難解なものではなく、現代日本に生きる私たちにもさまざまなメッセージが伝わってくる。ぜひ読んでみたい。もちろん、より深く理解するためには、この書物の時代的背景を知っておくことが望ましい。これについては、村上淳一『「権利のための闘争」を読む』というていねいな手引きが書かれている。この中では、ヨーロッパと日本、近代と現代という二重の観点から、現代の日本に生きる者として『権利のための闘争』から何を読み取るべきか、という問題提起もなされている。

<参考文献>
イェーリング/村上淳一訳『権利のための闘争』岩波文庫、1982年
村上淳一『「権利のための闘争」を読む』岩波書店、1983年
勝田有恒・山内進編『近世・近代ヨーロッパの法学者たち―グラーティアヌスから
カール・シュミットまで』ミネルヴァ書房、2008年
笹倉秀夫『近代ドイツの国家と法学』東京大学出版会、1979年

(小森田秋夫)

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