神奈川大学法学部
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法学生としてこれを読まずに死ねるか

公文 孝佳 准教授

江川紹子著『名張毒ぶどう酒殺人事件 六人目の犠牲者』(新風舎文庫2005年)   50年近く前の昭和36年(1961年),三重県と奈良県にまたがったのどかな集落でのことである。地元民の楽しみであった年に一度の宴会でぶどう酒を飲んだ5人の男女が次々に亡くなるという大変痛ましい事件が起きた。人と人のつながりが濃厚で,住民同士の親戚関係も珍しくない田舎の集落での大量毒殺事件…推理小説のプロットを地で行くような事件ではあったが,被害者となった女性の夫であり,また別の被害女性とも関係のあった人物の自白で事件は終わったかと思われた…しかし,事態は急変する。男は自白を翻し,男を信じた弁護士もまた自白の矛盾,自白と物的証拠の矛盾を突き無罪を主張したのである。しかし,男は死刑判決を受けてしまう。かくて,そのときから,50年近く続き,そして今尚続く戦いが始まることになる。
  本書は,事件事実を細かく紹介している関係もあり,特に高校生の皆様には少し手が出しにくいかもしれない。しかし,ぜひ手にとってほしい一書である。あやふやな証拠にもとづき一人の男の運命が暗転していく様子が描かれているからである。試みに以下にそのいくつかを挙げてみよう。諸君はどう思われるだろうか。
  (1) 男がぶどう酒に毒を入れたとされるのは公民館の台所であるが,そこで男が「ひとりでいた」時間帯は確定できない。
↓これに対しては…
=複数の目撃証言があるが,いずれも証言があやふや。しかし,裁判所はさして取るに足りない問題としている。また,証言をした者は警察官も臨席した部落の集会が行われた後で一斉に証言を変えている。
(2) そもそも,ぶどう酒が何時に公民館の台所に運ばれたかきちんと特定されていない。
↓これに対しては…
=(1)と同じ。
(3) 凶器となったぶどう酒に毒を入れる際に,「男が歯でコルク栓を開けた」と裁判所は認定するが,専門家による検査(鑑定)の結果,コルク栓の歯形は「彼のものではない」という結論が出ている。
↓これに対しては…
=裁判所はコルク栓以外の証拠で有罪が維持できるとしている。しかし,コルク栓の歯形以外で男が犯人であることを裏付ける主要な根拠は上記(1)・(2)なのである!!
  事件当時35歳だった働き盛りの男は,今や84歳となった。そして,半世紀にもわたり続く刑務所での日々は,死刑執行におびえる毎日である。本書は裁判員制度に関心のある方に,ぜひ手にとって貰いたい。難しい法律用語・制度・原則などは差し当たりどうでもよい。自白は自分の意思に基づき自発的になされたものでなければ証拠とできないこと,「再審」という制度がもう一度最初から裁判をやり直す制度である,という程度の理解でよい。人を一人裁き,果ては生命を奪う決断まですることの難しさ,重みを本書から感じ取ることができるだろう。また,「裁判は誤ってはならない」というごく当たり前の原則をを教えてくれるのも本書である。
  ある映画の印象的なセリフで「人間が狼を殺して終わるのは物語の中だけさ」というものがある。しかし,物語ではなく現実においてもなお,誤れる裁判では「人間が人間を殺してしまうかもしれない,いや殺す」のである。だとすれば,裁判が誤ったその瞬間,我々は…人間ではなくなってしまうのであろう。主人公「男」に対して死刑を肯定し続ける人々が「人間」なのか「狼」になってしまうのかは,本書の読者の判断に委ねたい。

 

※本書は版元倒産により現在は書店での入手が困難となっていますが,以下の支援団体からの入手が可能です。
奥西勝さんを守る東京の会
東京都文京区湯島2-4-4日本国民救援会東京都本部内
電話03-5842-6464 FAX 03-5842-6466

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