神奈川大学法学部
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法学生としてこれを読まずに死ねるか

池端 忠司 教授

 チャールズ・テイラー著・伊藤邦武・佐々木崇・三宅岳史訳『今日の宗教の諸相』岩波書店(2009年)  本書はその題名から受ける堅いイメージのために本屋の棚にあっても手にとってペラペラと中身を見てみようとは思わない部類の本かもしれない。実際、私も『<ほんもの>の倫理』の著書であるチャールズ・テイラーの最新の邦訳本ということでこの本に出会った。そしてこの堅い題名は誰もが読みたくなるような訳を付けない理由がある。この本は20世紀の古典といわれるウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』との対話・対決から生まれたもので、題名はもちろんそれを踏まえて付けられているからだ。
  この本は信仰か無信仰かの選択の問題を考えるうえで、また政教分離や信教の自由が憲法上保障されるようになった現代の世俗化された世界がどのようにして成立し、またどこに向かっているのかを考えるうえでも、よい道案内役を務めるであろう。
  ジェイムズは結論的には信仰者の側に立ち(テイラーも同様)、テイラーは個人の宗教的経験を宗教の本質とするジェイムズに対して、その宗教の理解が現在の私たちの宗教の理解にマッチしていることを指摘するとともに、教会などの信仰者同士の共同体の意義や教義・神学の持つ意義が軽く見られていることも指摘する。またジェイムズのいう個人的な宗教的経験は世界の意味喪失からくる憂鬱、悪としての世界に対する恐怖、個人的な罪深さへの恐怖という否定的な経験に対応しそれらを乗り越えるものであり、またジェイムズの宗教論の動機は当時の科学の時代の無信仰者(懐疑主義・不可知論者)と対決するための宗教容認の可能性であった。ここで話が少し横道に逸れるが、テイラーはボードレールの『悪の華』やデューラーの羽のある女性を描いた銅版画『メランコリー』を引きあいに出し世界の意味喪失について説明するが、非常に説得的であった。
  またテイラーは前述したように世俗化の歴史を説明するが、これは個人の宗教的経験を核心とするジェイムズの宗教観がいかに現代的であるかを明らかにする。テイラーは西洋近代から現代までの「世俗化の歴史」を三つに分け、「宗教と集団性が分離不可能な状態」(「神聖化された社会への忠誠」)を旧デュルケーム的体制、「分離されているが相即的である状態」(「国家的自己同一性への忠誠」)を新デュルケーム的体制、「全く分離して無関係な状態」(「表現的個人主義、ほんものの倫理」)をポスト-デュルケーム的体制と呼んでいる。
  旧デュルケーム的体制は魔術化された世界であり、神が聖なる場所(=教会)に現前し政治社会はそれと結びつき、より高い水準で存在可能になる。旧と新を画するのはアメリカ独立宣言であり、思想家としてはジョン・ロックがいる。神は、聖なる場所(=教会)ではなく宇宙や政治形態に現前し、神をデザイナーとする国家像がアメリカ合衆国の公共宗教である。ここでは自分にふさわしい教会を選択する市民は、複数の教会を包み込むより大きな秩序として神をデザイナーとする国家を理解する。この体制はアメリカだけでなくほかの国でも現在見られるものである。
  そしてポスト-デュルケーム的体制は「徐々に我々の時代の特徴になりつつある」(90-91頁)体制であり、テイラーは、「徹底的にポスト-デュルケーム的な社会とは、宗教的な所属が、国家的自己同一性に何のつながりももたない社会であろう。それはほとんど間違いなく、宗教的忠誠のとりうる形態が、きわめて幅広く多様であるような社会であろう。そして同じくらい確実に、そこでは多くの人々がジェイムズ的な意味での個人的経験を中心にした宗教的生活を追求することであろう。けれども、だからといってすべての人、あるいは大多数の人が、個人的経験を中心においた生活を送るとは限らない。多くの人々は依然として、自らの精神的な拠り所を、たとえばカトリック教会を含めた教会のなかに見出すだろう」(102頁)と述べ、「多くの人々は自身の精神的なものの感覚に導かれて、きわめて強力な宗教的共同体に加わることになった、ということもありえよう。」(103頁)と述べる。これが宗教の未来のあり方である。

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