神奈川大学法学部
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法格言集・法学者列伝

穂積陳重  「難解な法文は専制の表徴である。平易な法文は民権の保障である。」この言葉は、わが国の民法起草者の一人、穂積陳重の言葉です。法が国民の権利・自由を保障するものであれば、何よりもそれは国民に読め、理解できるものでなければならない。国民が読め、理解することができないということは、それは国民のためのものではなく、権力の擁護につながり、決して法のあるべき姿ではない。この言葉の意味するところは、現代社会においても決して褪せることなく光り輝いていると思います。
  穂積陳重は、1855(安政2)年、伊予国宇和島(現在の愛媛県宇和島市)に、宇和島藩士の国学者、穗積重樹の3人兄弟の次男として生まれました。長兄の重顎(しげあぎ)は、後に字和島藩主であった伊達侯爵家の家令となり、晩年は第一国立銀行頭取となっています。三男の八束(やつか)は、陳重同様、後に述べるように、東京帝国大学教授で、憲法学や国法学、行政学の講座を担当しました。八束は、国権学派の主唱者として、天皇絶対主義憲法論を強硬に主張し、当時台頭しつつあった自由民権学派の憲法理論に激しく反対しました。
  陳重は、藩校であった明倫館に学んだ後、16歳で藩の貢進生として上京、大学南校(東京大学の前身)に入学、1876(明治9)年には、文部省留学生としてイギリス、ドイツに渡り、法律学を学んでいます。帰国後は、東京帝国大学法学部で教鞭をとりました。日本ではじめての法学博士となったのは、陳重です。33歳のことでした(1888(明治21)年)。
  当時の日本の法律学は、フランス法、イギリス法、ドイツ法、オランダ法など、ヨーロッパ列強のそれぞれの法がモザイク的に移入されていました。とくに隆盛を極めていたのがフランス法でしたが、陳重は、イギリス法やドイツ法を積極的な導入を果たし、1893(明治26)年には、法典調査会委員として民法などの起草に参加しました。旧民法典を施行すべきか否かの、かの有名な「民法典論争」においては、八束同様、延期論を主張しました。旧民法典は、フランス流のボアソナード編纂の民法典でしたが、穂積らが主張する民法典は、ドイツ法を範とし、家父長的支配体制(家制度)の構築を目指したものでした。八束の論稿「民法出でて忠孝亡ぶ」(『法学新報』第5号(1891(明治24)年8月))は、世論をも捲き込む一大センセーショナルになりました。この「民法典論争」は最終的には議会の場で決着をみて、ボアソナード民法は延期、穂積派が勝利を収めることで収束します。陳重は、同法典の延期後、富井政章、梅謙次郎とともに法典調査会の主査委員を務め、新たな民法典(現行民法典)の起草にあたりました。日本の“民法の祖”といわれた陳重は、また、法理学(法の本質や理念、また根拠や価値などを哲学的な方法等により原理的・根本的に研究する学問である「法哲学」の別名)講座の開設者でもありました。彼の言葉に「学者の眼中、学理あって利害なし。区々たる地位、片々たる財産、学理の前には何するものぞ」というものがありますが、これは私たち学問を志す者がつねに忘れてはならない金言であると考えます。
  大日本帝国憲法施行直後の1891(明治24)年、来日中のロシア皇太子を、警護中の一巡査であった津田三蔵が襲撃した、いわゆる大津事件が勃発した時には、陳重は、郷里宇和島の大先輩で当時大審院長であった児島惟謙から意見を求められたのに対し、「外国でも敗戦国でない限り、自国の法律を曲げた例はない」「政府と対決して自分の主張が勝つ」と言って激励、惟謙から謝電が送られた話は、殊に有名であります。また「三蔵を殺すの罪は、憲法を殺し、刑法を殺すの罪よりは軽い」ともいい、法治主義のあるべき姿を守護しました(穂積陳重『法窓夜話』「九 大津事件」参照)。
  陳重は、学究一途にとどまることなく、1890(明治23)年には、貴族院議員に勅撰され(~1892(明治25)年2月)、1912(大正元)年に大学を退職した後は、男爵受爵(1915(大正4)年)、第10代帝国学士院長(1917(大正6)年~1925(大正14)年)、第14代枢密院議長(1925年~1926(大正15)年)をも務めています。陳重は、1926年4月8日に逝去していますから、72年間の生涯、現役としてわが国の法律・政治の世界の先駆者として、またつねにその最前線で活躍したこととなります。

※なお、陳重の死後のエピソードとして、出身地の宇和島市で陳重の銅像建立の話が持ち上がった折には、「老生は銅像にて仰がるるより万人の渡らるる橋となりたし」との生前の言葉から、遺族はそれを固く辞退したそうです。そこで市は、それでは現在改築中の本開橋を「穂積橋」と命名したいと申入れたところ、遺族はそれには了承し、現在、宇和島市内を流れる辰野川に掛かる橋の名前として彼の名前が残っています(文責:諸坂)。

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